筆頭家老の島左近と兵糧について詮議をしながら屋敷の廊下を曲がったところで、
石田三成の耳に喧々とした男女の諍いの声が無遠慮に入ってきた。
左近と顔を見合わる。
「なにごとだ」
「さて」
ならば、と三成はいとも気軽に足を運んだ。三成とはそういう男だった。
さらに三成は家臣の顔を一人ひとり覚えている。屋敷の者となれば尚更のこと。
諍いを起こしている男は三成の小者、女は台所で働く下女だった。
二人は三成の顔を見ると顔を青くして頭を低くしたが、
三成は気にした風もなくまずは顔を上げるように言う。
その折、二人の足下に野菜を煮込んだ夕餉の一品が散らばっていることに気が付いた。
どちらかが誤って落としたのだろう。
これが発端かと三成は諍いの原因に納得がいき、改めて二人を見やった。
聞けばやはり誤って三成の夕餉を落としてしまい、盛っていた椀にひびがいったと言う。
ただどうやら二人はその責を押し付け合っているのではないらしかった。
男も女も椀が割れ、我らが殿の手を傷つけたらなんとすると息巻いている。
三成は一瞬くらりとした。
おれは童か。
背後に控える左近はその様子に「殿は慕われておいでだ」と言い、
ついにはくくと堪え切れずに笑ってしまっている。
だがあくまで二人は真剣な様子であった。目を離した隙にまたやり合っている。
三成は手にしていた扇子で掌を数度とんとんと叩いた。その間に思案する。
それからまだ笑っている左近のみぞおちにばしんとやってやった。
「痛いじゃないですか」
などと左近は言っていたが、
三成が扇子から手を離すと、心得ていたのかそれを事も無げに受け取った。
「くだんの椀を」
三成が言うと小者の男がおずおずと椀を三成に渡した。
無名の焼き物である。華美な装飾も一切ない。料理を盛るという機能だけを持った器だ。
なるほど、確かに側面に大きくひびが入っている。
「あいわかった」
言うが早いか、三成は椀から手を離した。
あっという間に椀は板張りの廊下に落ちて、がしゃんと割れた。
男と下女が目を丸くする。
左近の顔は三成からは見えなかったが、さほど驚いてはいないだろうと分かっている。
「ああ、すまんな」
三成は左近から扇を受け取り、とんと一つ掌を打った。
「おれが落としてしまったようだ。
だがこれで椀が割れておれが怪我をするということはなくなった。
ともかく責はおれにあるゆえ、暫く夕餉からは一品抜け。その金で新しい椀を買うといい」
二人はぽかんとしていた。
そのような二人にこの場を片付けておくように言い付け、するりと三成は彼らを通り越す。
左近はゆったりとした足取りで付き従う。
三成はすぐさま兵糧に話を切り替えた。
その夜の夕餉は平素と変わりなかった。一品少ないということがない。
昼間割った椀はなかったが、代わりに見慣れない椀が膳にのっていた。
「これは?」
膳を運んで来た小姓に問う。
「島さまが」
「左近が?」
「お屋敷で煮物を作り過ぎたとおっしゃっていました」
殿は慕われておいでだ。
そう昼間にぬけぬけと言った左近の世慣れた笑みばかりが妙に思い出されてならない。
あやつめ。
あの男は暫く煮物を作り過ぎるに違いない。
あやつめ。
もう一度うめいて、どうしてか負け戦のような気持ちで三成は箸を取った。
お慕い申し上げ候。