「そこの若いお武家さん。どこへ行きなさる?

 こんな田舎とはいえ、一人歩きとは少々不用心じゃありませんかね」

 唐突の声に石田三成は馬を止めた。道の脇を見遣る。

 木陰には男が一人、傍らに刀を置き、足を崩して座していた。

 深く旅笠を被っているため顔までは分からない。

 地は大和。三成は主・秀吉公の遣いで訪れた。

 近習も幾人かは伴ってきたが、それぞれに用を言い付け、方々へと散らしてしまった。

 そうして主たる三成はいの一番に用を済ませ、

 借り上げている武家屋敷へ一度は戻ったのだが、今は男が言う通り、一人馬上にある。

 男曰く不用心であることは三成も承知していた。

 承知の上で一人で在るのだ。



 大和、か。

 宿とした屋敷の庭から万葉にも歌われた雄大でなだらかな山の稜線を眺めたとき、

 三成はふとこの国にこの人ありと謳われた男を思い出した。

 山崎に現れた筒井の名高き軍師。

 その姿を見掛けたときには、三成から声を掛けていた。

 それは非常に稀なことだったと後々気付いた。

 日はまだ山々をを赤く染めてはいない。まだ天の高くにある。やわらかな陽射しだ。

 島左近が居を構える地はこの近くだとも聞く。

 そうだ、訪ねてみよう。

 三成はそういともたやすく思い立った。



「畿内はすでに秀吉公の世とはいえ、悪党が消えてなくなったわけでもない」

 座して動かぬ男が言った。

 いちいち癇に障る物言いをする男だ。

 まるで主・秀吉が未だ畿内さえ掌握できてはいないと言われたような気がした。

 いや、事実そう言っているのだろう。

 いやなおとこだ。

 そのような三成の内心を知ってか知らずか、男はくつくつと笑いはじめる。

 不快なおとこだ。

 三成は男の前を通り過ぎようとした。

 だが、男の次の言葉を過ごすことは出来なかった。

「まして今を時めく秀吉公の幕僚ともなれば、敵も多いんじゃないですかね」

 僅かに顔が強張った。

 だが、おれが石田三成と知っている、そう冷静にも判じた。

 まさかこの男、敵か。乱波の類いか。付けられたか。誰の手のものだ。

 三成は腰に帯びた刀にすばやく手を掛ける。

 見たところ男は屈強な体躯だ。

 斬るか。おれに斬ること叶うか。

 ずくんずくんと全身の血がたぎり始める。

 そのように三成が俄に戦場の気配を纏い始めたとき、漸く男は動いた。

 が、その右手は刀ではなく、男の顔を隠していた旅笠に伸びていた。

 あ、と三成は思った。

 それ以上の長い言の葉は思い浮かばなかった。

 なんと間抜けなことだ。今おれはたいそう呆けた顔をしているのだろう。

 そうは思っても息が止まったまま、呼吸さえままならない。

 旅笠の下から現れた顔は、島の左近だった。

「今日は刀ですか。鉄扇はどうしたんです?」

 あの鉄扇での戦ぶりは鮮やかでしたねなどとからかいとも取れる声音の男。

 それまで三成にとってはただの国名であったはずの大和という地に、

 得も言われぬ高揚感をもたらした男。

 三成は息を呑んだ。鼓動も大きく打った。血はさらに熱く赤く体内を駆け巡った。

 そうして最後の最後、三成は膨らんだ胸の息を一気に吐き出すように彼の名を呼んだ。

「左近」

「はい」

 左近は目を細めて返事を返した。

 それが至極当然のような気がした。

 可笑しなことよ。

 三成は自分を戒めるべく殊更難しい顔をして、気を引き締めた。

「お目に掛かるのは山崎以来でしたか。息災であられましたか、三成さん」

 ともかく馬を降りる三成に左近は言った。

 馬を降りると左近が背を預けていた大木の土手下に彼の馬が見えた。

 三成は左近見遣る。

「どこかへ行くのか」

「それは先ほど俺があなたに尋ねた問いのように思いますがね」

 む、と三成は一瞬押し黙った。

 黙考の後、仕方なく口を割る。この男が言う方に理があると思ったからだ。

「ゆえあって大和に来た。そのついでにお前を訪ねようとしていたところだ」

「俺を?」

 これには左近もやや虚を突かれたらしい。

 はぁと間延びした返事を返しながら、顎を指の腹で摩る。それから小首を傾げた。

「それにしちゃあ随分ゆっくりした足取りでしたね。俺の家に着くころには夕刻になっちまう」

 そうでしょうと目を合わされ、三成はまたこの男の正しさに頷いた。

 ぎこちなくなったのは心内をを見透かされたようで面白くなかったからだ。

 ついでにこの男は話の流れを操るために、

 要所要所でのみこちらの目をじっと見てくるのだと気が付いた。

 そのせいで見透かされているのではないかと思ってしまう。

「行こうと思い立って出て来たは良いが、その途中、筒井殿に断りもなく、

 その家来たるお前に会うのは非礼なことではないかと迷うていたのだ」

「なるほど」

 こちらは左近を見ているというのに、左近は遠くの山のてっぺんを眺めながら頷いた。

 おい、こちらを向かぬか。三成がそう思った端から、

「ま、俺としちゃ人目を忍んで逢引を、とは胸が高鳴りますがね」

 ね?とまた覗き込まれる。

 思わず頷きそうになって、なんとか堪えた。

 話をする、それだけのことも思う通りにしようとする傲慢な男。

 これが名高き軍師、島左近の一端か。

 三成は畏怖を覚えながらも、この男のからくりをひとつ解いたような気になり

 少しばかり気分が良くなった。

「だがここで会えて良かった」

 左近が言った。

「何処かへ行くつもりだったのだな」

 三成は土手下の馬へ目を遣る。

 左近はええと頷きながら立ち上がり、刀を腰に帯びて、旅笠を脇に抱えた。

「まだ何処へ行くかは決めていないんですけどね」

 左近は何気ない調子でそう言った。

 土手を降りて行こうとさえするその背に、三成の視界が一瞬狭まる。

 そして唐突に開けた。

「筒井を出るのか」



「筒井を出るのか」

 三成の言葉に、ほう、と左近は振り返った。

 天下人に今や最も近い羽柴秀吉の若き幕僚。懐刀。政権を支える行政官吏の筆頭。

 そのようなところに立つ彼らしく、その白皙の顔には驚きはなかった。

 彼はただ事実を述べるために顔を作るような面倒をしないのだろう。

「近い内にね」

 主を見限ったからといって今日明日にふらりと身を消せるほど左近は身軽ではない。

 長く食んだ地にはそれ相応の枷もしがらみもある。

 ふぅんと三成は頷いた。

 それは先ほどのように左近の調子に乗せられてのものではなかった。

 「おのれと比肩する知恵者は世にただひとり三成のみよ」

 と秀吉に評される石田三成の顔が、瞳が、覗いている。

 この若い男が頷く姿は咀嚼する姿にも似ていると左近は思った。

 この世のあらゆる事象、現実を食っては咀嚼し、結論を生み出す。

 今彼は左近の短い言葉をおのがものとするために食っては咀嚼しているのだろう。

 一から十までを砕いて言わずとも、

 この男ならば勝手に噛み砕いて理解するに違いないと左近は思った。

「大和に留まるのも悪くはないんですがね。

 なにせ気候が良く、酒は旨く、おんなはおおらかだ」

 言外に三成が思う地があるなら聞こうと含ませる。

 さてどうでるか。

 三成はまたふむと頷いて「ならば」と左近の意図をすぐに汲み取ってみせた。

「ならば近江はどうだ」

 ああこれは楽しい。

 左近は三成と規則正しく呼吸のように繰り返せる会話を楽しみながら、近江ね、と呟く。

「春は温かく、秋は涼しい。

 夏は琵琶湖より吹く風のおかげで大和よりも過ごしやすいやもしれん。

 冬の雪はいかんともし難いが、あのしんとした雪の静けさは思案をするには良いものだ。

 あと、酒は、旨いとも聞く」

 ほぉと左近は相槌を打った。だがそれだけだ。

 もう少しこの気難しそうな若い男の言葉を引き出してみたかった。

 するとやはりこの賢い若造はこちらの意図を汲み取り、面白くなさそうな顔をした。

「女はよく知らん」

 素直なお人だと左近は笑った。

 それゆえなのか、思わず助け船を出してしまいたくなる。

「そんなに近江はよろしいですか」

 問うと三成はひとつ頷いた。

 そんな微かな仕草にもこの若い男の赤みがかった髪はさらさらと耳から零れる。

 頬にかかった髪が擽ったそうだなと左近はそんなことを考えた。

 次いでいっそ手を伸ばし、あの髪を払ってやりたいとも思う。

 だが三成は気にした様子もない。「近江は、良いところである」と言う。

「ほほう、それほどに。ああ、そういえば、近江といえば三成さんの」

 知行地になることは左近も知っていた。

 彼は近く近江水口四万石の国持ちになる。そういう噂は耳にしていた。

 三成は、ほぅと感心したようだった。

「さすが島の左近だ。そのようなことまで知っているとはな。そうだ、近江はおれの故郷だ」

 思わず、思わず、左近は顔を押さえて笑ってしまった。

 そうか。そうきたか。そうくるとは思わなかった。

 石田三成が近江長浜城主であった秀吉に拾われたことは左近も知っている。

 だがまさか、この時、この機に、そう言うか。

 わざわざ一人、左近に会いにきたというこの男が。

 三成はみるみる内に不機嫌になった。

「なんぞおれはおかしなことを言うたか。

 おれはお前が良き地を知りたいと言うから、近江が良いと言ったまでだ」

「ええ、ええ。もちろんです」

 三成さん、と左近は呼んだ。

 まだ髪は零れたままだ。

 左近は手を伸ばし、もとの通りきれいに整えてやる。

 三成はぎょっとして左近の手をぴしゃりとやろうとしたようだったが、

 左近はするりと先に逃げてやった。

「いずれ必ず一度は近江に参りましょう」

 む、む、と三成は唸る。

 左近は笑った。

「気候もよく、どうやら酒も旨いらしい。

 ま、三成さんの故郷なら、おんなもさぞきれいなんでしょうな」

 おおらかじゃあなさそうだがね。

 左近はそう言ってしばしこの気の強い若者の顔を眺めることに決めた。

 「お送りしますよ」と馬に乗るよう促す。

 「要らん」と三成は言ったが、

「俺が本当に乱波であったら、どうするつもりだったんです?」

 そう言うと、彼はむっつりと黙った。

 ここが押しどころかと見極め、さらに腰を屈めてその顔を覗き込む。

「ま、袖振り合うも多生の縁というじゃありませんか。

 まして、三成さんは人目を忍んで俺に逢いに来て下さった方だ。

 心配ぐらいはさせて下さいよ」

 ね?と言うと、三成は如何にも仕方なさげに馬に跨った。

「この阿呆め」

 と吐き捨てるように言われたが、

 これがこの若者の照れ隠しであり、了承の意であり、謝意なのだと左近には解った。

「それにしても、三成さん」

「なんだ」

 馬を並べて道を行きながら、左近はふと尋ねた。

「俺が本当に乱波であったら、という話ですが」

「ああ」

「どうして逃げなかったんです?あの場合、逃げるのが最善でしょう」

「かんたんだ」

「とは?」

「おれは逃げるのがきらいなのだよ」

 三成がそう言うと、左近は「なるほど。かんたんでしたな」と笑った。

 よく笑う男だ、だがいやではないなと三成は思いながら、心中繰り返す。

 おれは逃げるのがきらいだ。

 そして、おれはみすみす鬼を逃がすほど阿呆でもない。

 この男は一度は必ず機会を呉れてやると確かに言った。

 さあ、待っておれ。

 ぴしゃりとやってやろうと振り上げた手で、おにと呼ばれたこの男を必ずや捉えてみせよう。










おにさんこちら、てのなるほうへ



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