「ひとつもらおうか」

 左近が路上の笠売りにそう声を掛けると、売り物の笠を頭に乗せた行商人は顔を上げた。

 浅黒く日に焼けたまだ若い男は、左近の刀を見てひょいと頭の笠を取る。

「お侍さん、お目が高い。うちの笠はよそとは違うんさ」

 にっと笑って辺りに広げた笠から好きなものを選ぶように言うので、

 左近はしゃがんで笠のいくつかを手に取りながら、「国は尾張かい?」と尋ねた。

 ついで男が訝る前に「喋り方が知り合いと似てるもんだからね」とその警戒を解いてやる。

 すると行商人はすぐさま合点したように笑い、尾張から京か堺に上る途中だと言った。

「おらぁ太閤さまのような男になるんさ」

 知り合いがその太閤秀吉だと言ったら、この男はたいそう驚くに違いないだろう。

 そのようなことを考えながら、左近は笠をひとつ買った。

 銭を渡しながら尾張から近江佐和山までの道中の様子を二・三世間話程度に尋ね、礼を言って去る。

 本当はもう少し東国の様子を聞きたかったが、仕方がないと諦めた。

 笠を手に、市を抜ける。

 そのまま町を過ぎれば、やがて右には田畑が広がり、左には川と土手が現れる。

 その土手下に石田三成を見つけた。左近は斜面を下る。

 三成は川の水面を眺めているという風でもなく、

 ただそこに腰を据え、ただ真っ直ぐに目を凝らしているようであった。

 馬はない。供も左近ひとり。

 夏の名残のような日差しが彼の肌をじわじわと熱していたが、それを遮る笠さえない。

 こうも何もかもが整っていないのは、半刻ほど前、佐和山の天守から市を眺めていた三成が、

「左近。おれはもう少し近くで市を見たいのだよ」

 と言い出したためだった。

 「ならば」と左近は天守を降り、見晴らしの良い三成の屋敷近くまで供をしたが、

 そこでもまた「よく見えんな。もう少し近くに見たい」と三成が言ったので、「ならば」と坂を降りた。

 そうして「ならば」と「もう少し」を幾度も繰り返している内、とうとう城下へと降りてきてしまっていたのだ。

「殿」

 さすがに左近ひとりを供に市を見廻ることは出来ず、腰を下ろし休んでいた三成に左近は背後から笠を被せた。

 三成は振り返るだろう。左近はそう思っていた。

 振り返って、左近の気安い振る舞いに腹を立てるか、「おそい」と言うか、市の様子を訊くか、

 そういうことになるだろうと思っていた。

 だが、ならなかった。

 なにひとつ、そうはならなかった。

 三成は被せられた笠に指先で触れ、目を、顔を隠す。

 殿。

 と訊ねること、言うこと、呼びかけることはかんたんだった。

 だが左近はあえてどれもしなかった。

「思い出していたのだよ」

 と三成が言い出すのを待っていた。

 時はそれほど必要ではなかった。三成の指先が笠をちょんと上げる。

 難しげな顔つきの多い彼にしては珍しく柔らかな目をしていた。

「いつのことだったか、いくさ場で、秀吉さまからこうして笠を賜ったことがあった。

 おれだけではない。

 いくさ場にいるみなが、暑かろうと秀吉さまから笠を賜ったのだ。

 敵も味方もあったものではない。

 そういうことを、今、ふと思い出していたのだよ」

 三成の話はそれきりだった。あとは口を閉ざしてしまう。

 うそだな。と左近は思った。

 この人は今うそを言ったのだ。

 いつのことだったか、などうそだ。

 この人が、石田三成ともあろう人が、秀吉の戦を、秀吉との思い出を忘れるはずがない。

 忘れようとしているわけでもない。

 左近は思った。

 この人は、ほかのだれが忘れようとも、

 秀吉に与えられたものを、笠ひとつだって覚えて、背負っていくのだろう。

 ただ、今はそれらを小さく小さく折りたたんで、大切に大切に心の奥底へ仕舞おうとしている。

 ひとり、この世で立つために。

 石田三成という秀吉に愛された人は、今、秀吉が愛したものを懸命に愛そうとしているのだ。

 三成は、その通り、立ち上がった。

 その背には田があった。畑があった。市があった。村があった。町があった。

 民があった。家臣があった。城があった。

 石田三成は秀吉から与えられた近江佐和山十九万石を背負っている。

 そうして左近は気が付いていた。

 この人は今は遠い大坂を、それでも真っ直ぐに目を凝らして見詰めているのか。

 殿。と呼んで引き止めて抱いて守ることのほうが余程かんたんなのだ。

 だがそうはしなかった。

「行くか」

 と言われて、

「はい」

 と応える。

 それが石田三成への忠義であると左近には思えてならなかった。

 昨日ようやっと羽化をした夏虫が終わりゆく夏の空を惜しんでふたりの路の上に鳴いている。










天高く、空遠く


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