蓑はずぶ濡れであった。

 かと言ってこの大風では傘などはぽきりと折れてしまうか、飛ばされてしまうだろう。

 髪、着物、戦わらじ、どれもじとりと重く、ゆるんだ泥にずるりと足を取られる。

 平素きびきびと歩く石田三成にしては遅い歩みだった。

 だがそれでも付き従う幾人かよりは速い。

 時には手を着きながら三成は泥と化した堤をまさに這い上がっていた。

 堤が決壊した、という知らせを聞いたのは今朝早くだった。

 田畑をいくつも押し流した、

 と聞いたのは川を見に行くという三成を家臣たちが縋るように止めていたときだった。

 馬は途中で置いてきた。急な堤はこの雨では登れまい。

 そうして漸く堤を登り切ったところで、三成を突き抜けていくものがあった。

 ごおっという地響きが足元を揺らす。濡れそぼったはずの髪がはためく。

 人を町を作物をつい昨日まで育んできた川が怒ったように荒れていた。

 いくつもの橋を押し流し、山肌から岩さえ奪い、

 人が築いた堤を容赦なくえぐり取ってごうごうと渦巻く中に呑み込んでいく。

 三成の立った真下にも流されてきた岩がどおっと当たった。

 足元が鳴り揺れ、ぱらぱらと小石や砂が川に落ちて消える。

 近習たちは激しい雨風の中、早く戻るようにと喚いた。

 中には細い三成がこの大風に飛ばされてはならないと這い蹲って三成の足にしがみつく者もいる。

「ここも崩れまする」

「とくとく、お逃げくださいませ」

 だが三成はまだ下がらなかった。雨風に打たれながら声を張り上げる。

「見張りを立てろ。人を集めろ。土俵を高く積め。

 土俵は城のどこそこに、荒縄は城のどこそこに、あるからあるだけ持って行け。

 蔵を開け。民には惜しまず与えよ。必ず金を遣って雇え。

 高台に陣屋を組むのだ。医僧どもに急ぎそこに集まるよう伝えろ」

 息つく間もなくまくし立てる三成もまた嵐のようだった。

 激しく吹き荒れる思考が、言葉になり、鞭のようにぴしゃりぴしゃりと打ち出されていく。

 家臣たちは転がるようにして堤を駆け降りて城へ向かった。

 三成は目をかっと見開く。

 ここも直に崩れる。三成は押し寄せうねる流れをぐっと見据えていた。



 島左近が城へ登ったのは、堤が決壊してから三日経った昼のことだった。

 主を訪ねると、墨の匂いがぷんと漂う。書きものが無造作に広げられていた。

「乾かんな」

 墨のことを言っているのだろう。石田三成は文机に向かってはいなかった。

 書き終えた書状に追い詰められるようにして、部屋の奥、床柱を背に足を崩している。

「また少し降り出しました」

 左近は特に断ることなく書状の幾つかを横によけた。

 そうして三成の真向かいに折目正しく腰を下ろす。

 思った通り、石田三成は憔悴などしていなかった。肩を落としてもいない。

 目が落ち窪んでいるのは眠る暇も気もなかったからだろう。

「書状を書いた」

 三成は立てた片膝に左肘を置き頬杖をついた。

 左近は「そのようで」とだけ答える。

 すると三成は吸うために一拍を置き、一気に息を吐いた。

「堤を積み直す人足、金、資材を弾き出した。

 橋をかけ直す算段と奉行も整えた。

 家を失くした者どもは当面城の米と炭で食えるだろうが、年は越せん。

 大坂の米を買い上げるよう書いた。船場に遣いもを立てる。

 加えて触れを出す。町、村に掟書を立てる。

 押し流され、水に漬かった田畑は免租、働ける男を亡くした家には遺族年金を与える。

 沙汰人は決めた。差出と照らし合わせる免租料と年金料を細かに定めたものがこれだ」

 無造作に三成が床から黒々とした紙を取り上げる。

 たらふく墨を吸ったそれはくしゃりと鳴った。あとで右筆に清書させるのだろう。

 左近は受け取り、目を落とした。

 だが最初の数行で途切れる。

 「足りん」と三成が言うのだ。

 顔を上げると三成はほぅと宙を仰いで嘆息していた。

「と、思うのだ」

 先達て決壊した堤は大水にも崩れないように築いた。

 川を測り、水を量り、木をしかと組み、土と石と岩を余すところなく積んだ。

 あの堤は崩れるはずはなかったのだ。

「だが、崩れた」

 石田三成という男は滅多に俯かない。

 左近は三成と向かい合ったとき、横に並び立ったとき、後ろに控えたとき、

 何度もそう思ったように今回もそう思った。

 三成は俯くことをせず、天をしかと見詰め、

 あとどれくらいでそれに手が掛けられるのかを測ってさえいるのだろう。

「いくさでもそうだ」

 三成は言った。

「地の利、兵の数、兵糧、足りているというのに足るよう取り計らっているというのに、

 なにかが足らん。いつも足らん」

 だがおれには何が足りていないのかがわからんのだよ。

 と、三成はそれでも俯かず、天を仰いだ。



「では、もういくさはしませんか」

 そう言った向かい合う島左近の指の爪は土に汚れていた。

 朝から民に、家臣に混じり、田畑の泥を掬い、大岩を割って来たのだろう。

 土に埋もれてしまったもう物言わぬ骸を引っ張り出しても来たのだろう。

 そういうことを先んじてする男だ。黙ってする男だ。そのあと気軽に笑える男だ。

「もう堤は積みませんか」

 三成は左近を見た。左近は常と何らかわりない。笑っている。

 「いや」と三成は言った。

「左近」

「なんでしょう」

「おれは弱気になっていたようだ」

 髪をくしゃりと掻く。それから笑った。

「おれはいくさをするぞ」

 言うと左近は頷いた。「ええ、しましょう」と頷いた。

 三成は手に体に熱が篭るのが分かった。泥のように重かった体が軽くなる。その高揚のまま、

「おれは堤を積むぞ」

 とまた言うとまた左近は頷いた。「ええ、積みましょう」と頷いた。

 島左近は積むだろう。

 三成が堤を積むと言う限り、何度崩れようとも三成がそれでも積むと言う限り、

 この男はなんでもないような顔をしながら泥を掬って岩を割り、骸を黙々と重ねながら、

 土を積むのだろう。

 三成の心に弱気の穴が空きかけたのならそれまでも埋めて、

 三成の手が天に掛かるよう高く高く三成の立つ地に土を積むのだろう。

 そう知っていれば知っているほど、この男がいとおしくてならない。

 三成は島左近のあの手を取って、取られてやりたくなるのだ。










ありの穴から崩れても


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