三の丸までは緩やかな勾配を歩いた。眼下には豊臣の主だった家臣団の武家屋敷が並ぶ。

 長浜の頃よりも随分と増えた。今日になって三成はそう思う。

 首を巡らせた。左近は何を言うでもなく付き従っている。

 城内、城下では隣に並ぼうとしない男である。

 さきほどのように前に出ることの方が稀なのだ。

 そのさきほどを思い返し、三成は口を開いた。

「さすがおにの左近だ。奴めを追い払った」

 するとその当人は苦笑いをする。

「そんなに恐ろしいですかねえ」

 島左近は平生より泰然とした男である。

 いくさ場でさえ、恐ろしいものなどない、といった顔をして三成の隣にあるのだ。

 三成は、この男が恐ろしいおにと言われる所以は、

 実のところ軍略であるとか、誇る武であるとか、それ故ではないと思っている。

 この男は不動なのだ。山か岩かのようにそこに在ってびくともしない。

 軍略の上で引くことはあっても、槍も鉄砲もこの男をたじろがせることはできない。

 悪意でさえ鷹揚に笑って受け取って見せる。

 「恐ろしいな」と三成は言った。それからこうも付け足す。

「だが、おにのようでないなら、おれは要らん」

「もっともですな」

 左近の笑いは言葉とともに終わった。交わす会話もそこで途切れる。

 かと言ってあの親密な空気が全く消えてしまったわけでもない。

 今だ二人の間には、三成が思考という内側へ入り込み、心を傾けても許される、

 そういう形のないものが、しかと存在している。

 三成はだれの前でも遠慮というものをしなかったが、左近の前では特に憚らなかった。

 いつの間にかそうなっていた。

 風はない。

 人は疎らであった。

 陽射しは長閑で、空には雲が薄くたなびいている。

 今日、今は心が痛くなるほどの静である。

 辺りはすでに秀吉の世であった。

 そうしてもうすぐこの日ノ本余すところなく秀吉の世が到来する。

 三成は歩んだ。

 思うことがある。しかし、歩んだ。

 今か今かと待ち望む日を前に心に懸かることがある。しかし、立ち止まりはしなかった。

 踏んだ小石が鳴る。三成だけでない。付き従う左近が在る。

 それで、ふと心が零れた。

「美しい話にしてはいかんのだ」

 三成は言った。

 豊臣方から寝返った士を美しい話にしてはならない。

「秀吉さまの世はこれでよい。秀吉さまは傑出の才で天下を取られるであろう」

 それは疑うべくもない。

 そうしてあの番方が言った通り、敵味方も懐に入れ、日ノ本全てを平らげるだろう。

 だが、と三成は言う。

「だが、秀吉さまはいつかお隠れになる」

 それも本当に疑いようがない。

 いずれ必ず、時が止まる永遠の日がだれにでも、秀吉にも訪れる。

 三成は秀吉を思った。

 豊臣秀吉は傑出の才である。貧しい身から一足飛びに乱世を駆け上がった。

 そうして今や秀吉こそが時代そのものである。

 しかし、それほどまでに秀吉が抜きん出ているからこそ、その器は続きようがない。

 才気は一代で終わるしかない。

 だれも秀吉の跡を継ぐことはできないのだ。

 そういうことを、振り返りはしなかったが、左近は初めから分かった風だった。

 かつて彼が学んだという武田はとうに滅びた。

 宿老とさえ言われた筒井は左近が仕える器ではなくなってしまった。

 客将として、家老としてその身を衰える家の内に置いてきた左近だからこそ、

 三成の危惧が分かるのだろう。

 豊臣にも今、後がない。

 だからこそ三成は歩むのだ。独断であるのだ。僅かな時さえひどく惜しい。

「秀吉さまの世の内に、豊臣の世を作らねばならない」

 三成は心からそう思う。

「律令を定め、規律を正し、豊臣を盤石なものとしなければならない」

 そうしてそれが石田三成には求められている。

 賢明な三成は、秀吉の傍近くに自分が置かれている理由を正しく理解している。

 三成はかの将を思い遣ることができる。

 かの将や助命を請う者どもを一考にしなかったわけでもない。

 だが、天秤で量れば、それらはひどく軽いのだ。

「豊臣方から寝返った士を美しい話にしてはいかんのだよ」

 裏切りの将は秀吉だからこそ、敵方の将は秀吉だからこそ、

 懐に入れても飼い慣らすことができていた。

「だがもう、そうはいかぬ」

 だから腹を切らせる。

 豊臣に反する者は罰を受ける。不義の者であるからだ。

 そう世に知らしめるため、かの士には腹を切ってもらわねばならない。

「おれは秀吉さま亡き後の世も、豊臣が天下を統べていられるようにしなければならない」

 後年のことである。

 三成は秀吉亡き後、朝鮮から兵を粛々と引き上げた。言葉通りにして見せたのである。

 さて、今、家中でどれほどのものが気付いているだろうか。

 三成は思う。

 どれほどのものが、来たる日に目を向けているだろうか。

「おれが辛いのはな」

 左近、と続ける。

 呼びかけたのは返事が必ずしも欲しかったからではない。

 ただ、もしこころ内を明かすのであれば、この男がよかった。

 天を仰ぐ。

「だれよりも秀吉さまが心を痛められていることだ」

 左近、と名を呼ぶ。

 左近は、今度は口を開いた。

「ここにおりますよ、殿」

 そういう言葉を左近が選んだわけが今の三成には理解できた。

 だから、「いや」とは言わなかった。

「お前には兵を連れて、先に佐和山に帰ってもらう」

 長く兵を街中に留めおくのはよくない。

「殿は」

 そう尋ねる左近に三成は答えて言った。

「いくさだ」

 豊臣の天下、それのための、である。










鬼っ面に 四


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