「石田様がおみえです」

 と言う傍仕えのやや慌てた様に、島左近は「またか」と額に手を当てた。

 あれはまだ雪の深い頃のことであった。

 今日のように突然三成が左近の館を訪ねて来たことがある。

 館の者どもがさほど騒いでいないのは、そうしたことがあったからだろう。

 それからひとつ季節は過ぎた。

 夏の夕暮れである。空は未だ朱い。

 左近が室へ行くと、三成の座した影がひとつ伸びていた。

 訊けば館前で近侍は返したと言う。

 どうにもこの若造は身軽な小姓気分が抜けきらない。

 諫めるか。左近が眉根を寄せた、そのところを見計らったように、三成が口を開いた。

 「飯はあるか」と言う。

 続けて、「なに、米と塩と汁物があればかまわん」とも言う。

 そのあっさりとした、ずけずけとした言い様に、左近は諫言の機を失くした。

「そりゃあ、あるにはありますがね」

 言いながら、ついと三成が目を向けた先を追えば、台所から飯炊きの煙が上がっている。

 腹が減っているのか。左近は眉根を開く。つい笑ってしまった。

「殿。なんぞ悪さでもされましたか」

 家へ帰るに帰れず、腹を空かせて転がり込んできた悪童のようだ。

 もちろん、そうではないと左近は分かっている。

 そうして、そう左近が分かっていることを三成も分かっている節がある。

 あるからこそ、平淡だが棘のない様子で返してくる。

「悪さをしていたら、まずここへは来ない」

「ま、そうでしょうな」

 左近は傍仕えを呼び、膳を運ばせた。

 それぞれの前に米と塩、汁物の膳が、そうして真ん中に炙った魚と野菜の煮付けの膳が出される。

「お相伴させて頂きますよ」

 三成の来訪がなければ、ちょうど夕餉の頃合いだったのだ。

 三成は、しかし臣下の相伴にではなく、膳に眦をぴりりとさせた。曰く、

「臣下のものを取って食えるか」

 さっさと真ん中の膳を左近の方へやれと傍仕えにぴしりと言う。

 言われた傍仕えは困ったように左近を見遣った。

 左近は苦笑いで傍仕えを下がらせると、真ん中の膳に頑なに箸をつけない三成に向き直る。

「三成さん」

 言うと、三成は僅かに瞠目した。箸が止まる。

 他方左近は何気ない態で汁物を取り上げた。ずっと口をつける。

「二万石といえばアンタの禄の半分だ、ってね。

 殿が臣下に半分も下さったんだ。ここは仲良く飯も半分ずつとしましょう」

 すると、三成はひどく気難しげに鼻を鳴らした。

 だが、その箸が無遠慮に真ん中の膳へ伸びる。

 世に言われるへいくわいもの石田三成は、たったこれほどのことで照れも喜びもする。

 そういうことを左近は世の人に言って廻りたいとも思えば、

 この頃は過ぎたるものの誉れに反して、ひそりと胸にしまっておきたいとも思うのだ。



 膳を下げると、今度は、薄物をひとつ貸してくれ、と三成は言った。

 左近が薄々気がついていた通り、どうやら端から帰るつもりはなかったらしい。

 近侍をかんたんに返したのもそのためだったのだろう。

「屋敷だとつい筆を取ってしまう」

 左近の館を訪れたのは、そういうわけだった。

 三成は帯から懐刀と扇を抜き、袴も取った。そうしていかにも寛いだように胡座をかく。

「滅入りましたか」

 左近がそう尋ねると、「まさか」と片眉を跳ねた。

「では、詰まりましたか」

 だが、それにも「まさか」と言う。

「逆だ」

「とは」

「冴えて困る」

 石田三成は本当に心底難儀そうに言った。

 昼夜かまわず次々と頭の中に政が閃き浮かぶ。

 特にひとりでいる夜は、余計に思案に耽ってしまう。どうにも眠れない。

 この残暑だ。いずれ体が先にまいる。それでは困る。

 とにかく夜が厄介で厄介で仕方がない。

「女が要ると思ったぞ」

 三成がそんな風なことを生真面目に言ったので、左近は大いに笑った。

 それから軽口の調子は崩さずに言う。

「では、俺が夜のお相手をいたしましょうか」

 灯に油を入れた。

 夏の長い日にも、そろりそろりと夜が近づいている。

 三成は左近の言にあっさりと「うん」と答えた。

 受け取った薄物をかけ、ごろりと横になる。用意させようとした寝間は要らないと断られた。

 三成は片腕を枕代わりに、左近を仰ぐ。

「そのつもりで来た」

 相手をせよと言う。

 その変わらない寛いだ親しげな様に、左近は灯りかけた胸の火をそっと吹き消す。

「左近」

「はい」

「庭を眺めたい」

 言われて、立った。人払いをしたため、左近自ら障子と雨戸を開けに行く。

 外はいよいよ日が落ち、夜が訪れていた。月明かりが庭に忍び入っている。

 振り返れば、三成のあの常日頃のぴしりとした気配が引っ込んでいた。

 薄い瞼さえ重そうに見える。

「左近」

 また呼ばれた。

 左近は寝転がる三成の傍に座り、扇で虫を払ってやる。

 筆を置き、訪ねてくるほどなのだ。三成が言うよりも、体はまいっているのだろう。

「なんぞ退屈な話をせよ」

「はあ」

「お前が黙るとまた考え込んでしまうではないか」

「なるほど。では、いかような」

 問うと、三成はふぅむとゆるゆる二度三度瞬いた。

「政の話はいかんな」

「でしょうなあ」

「いくさの話もいかん。諸国の話も民の話もいかん。

 お前の昔話はそういう話ばかりなので聞きたくない」

 そのようなことをあれこれ言ったあとに、「そうだ」と三成はまた左近を仰いだ。

「お前が抱いてきた女の話がいい。退屈そうだ」

 言われて、左近は口の端を上げた。

 「そりゃあいけませんぜ」と釘を差す。

 三成はいよいよ興が乗ったらしい。目は庭に戻しながら、

「なんだ。こっぴどくふられたことでもあるのか。島の左近ともあろう者が」

 おかしみが滲む声で言う。

 せっかくとろんとしていた目も声音にもまたあのぴんとした張りが戻ってきてしまっている。

 左近はそれを指摘した。

「殿は俺のそういった話にご興味があるようだ。それじゃあ眠れんでしょう」

 三成は憮然とした。

 だが、正しい指摘は、意固地にさえならなければ、聞き入れる度量はある。

 のらりくらりと言い逃れをしないところも、

 この横柄な石田三成の数少ない可愛いげなのだと左近は思う。

 そうして、やはり今くらいはそれをひそり一人の胸にしまっておきたいとも思う。

「さて、今は昔ってやつでもしましょうか」

「そういうものは、一通りは読んだことがあるぞ」

「であるからこそ、退屈極まりないでしょう」

 言うと、三成は鼻を鳴らした。

「お前の寝物語にしては色のないことだ」

 その言葉に欠伸が混じる。眦には涙がじわりと滲んだ。

 それを指で掬ったとき、左近は「ちょっとまずったかな」と、しかし呑気に考えた。

 いくつものいくさに臨んだ指である。

 それを濡らすほどもない滴が染み入って、吹き消したはずの胸の火をまた灯すのだ。

「いまはむかし」

 左近はそっと心うちを明かす。










ひとりの男ありけり。


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