「うぇ」
それは嘔吐だった。小さく呻いた小姓衆の一人が口元に両手を当てている。
だが、間に合わず、うっうっと餌付く度に吐瀉物が掌からどろどろと溢れた。
そういう唐突のことに、誰よりも早かったのは、ねねだった。
瞠目する秀吉と佐吉の合間に割って入り、
嘔吐のおさまらないその小姓の背をさすりながら屈ませてやる。
そうして、汚れた口元を覆う汚れた手に手を触れた。
「吐いちゃいなさい」
これでは吐瀉物のせいで喉が詰まってしまう。
しかし、顔を真っ青にした小姓はひどく恐縮した。
秀吉の居城、長浜城である。ねねは美しい腰巻き姿であった。
小姓である我が身を思えば、なんと恐れ多いことか。
そう思ったに違いない小姓は身を震わせながら、頭を振った。ずっずっと後ずさりもする。
すると、今度は秀吉が気安く小姓の傍に膝を着いた。ねねに代わって背を撫で、
「かまわんかまわん。どんどん吐け」
と言う。
「着物は新しく仕立てればええ。城くらいまたどぉんと建てちゃる」
とも言う。それは秀吉らしく、明るみさえ帯びていた。
ねねは微苦笑をした。秀吉を咎める。
「着物は洗えばいいんだよ、お前さま」
それから、小姓の手をやさしく取った。
ねねの手に、膝に、畳に吐瀉物がこぼれる。けれど、ねねはいやな顔ひとつしなかった。
小姓の目がみるみるなみだで盛り上がった。それは佐吉にもよくよく見えた。
鼻もついにぐすぐすと鳴り始める。それも佐吉にはよくよく聞こえた。
そうしてその様に秀吉はにっかり笑い、小姓の良く整えた髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「泣かんでええ、泣かんでええ。すぐに良くなる。なあ、ねね」
「そうだよ。暑気中りかねえ」
佐吉、とねねが顔を上げた。そこで佐吉は我を取り戻す。「はい」と答えた。
「どこか涼しいところに布団を敷いてやっておくれ。
それから台所に行って、冷ましたお白湯をもらってきてちょうだい」
ねねが言うと、秀吉は小姓の脇を支えた。立ち上がらせる。
「よっしゃ。そっちは佐吉に任せるで。さ、お前は井戸じゃ、井戸」
まずは洗わないかん、と秀吉とねねが手ずから小姓を連れて行く。
佐吉はそんな背を振り向き様に見送った。
そういう、もう昔になってしまったことをふと思い出したのは、
顔色の悪い小姓を見かけたからだ。
おい、お前。と声をかける前に、その真っ青だった小姓は、三成の前で嘔吐した。
あのときの小姓のように口に手を当てはしたが、ぼたぼたと吐瀉物は廊下に滴る。
盛夏が去ったとはいえ、昼頃の残暑は厳しい。暑気中りに違いなかった。
少年は目眩も起こしているのだろう。足下もおぼつかない様子でうずくまる。
三成は一瞬身を固くした。が、すぐさま屈み込み、小姓の背をさすってやる。
けれど、小姓は主の着物や廊下が汚れることを恐れ、健気に吐くのを堪えている。
「かまわん。残らず吐け」
三成がそう言ってやると、その通り、小姓はげぽげぽと腹の中のものを残らず吐いた。
そうしている内に事態に気がついた他の小姓がぱたぱたとやって来る。
その者はまず汚れた三成の手を拭おうとしたが、三成は「要らん」と断った。
代わりにまだ顔色の悪い小姓を立たせ、預ける。
「どこか涼しいところに床を延べ、よく休ませろ」
そのようにして小姓どもを下がらせると、三成は草履を突っ掛け、庭に降りた。
井戸で水を汲み、ぼろ布をいくつか絞る。
吐瀉物に汚れた廊下を拭くためだ。
そういうことを手ずからするのは、なにもあのときの秀吉とねねを思い出したからではない。
石田三成は寺の小姓上がりである。秀吉にもはじめ小姓として仕えた。
加えて、あのとき、室へ戻るともうそこは元の通りであったのだ。香さえ焚かれていた。
ねねに違いなかった。
そういうことを、いつまでも、どれほどの身になろうとも、ひとつも厭わないでする人だ。
そういう秀吉とねねの元で三成は歳の半分以上を育った。
額に汗がじんわりと滲む。
吐瀉物の臭気にいくらか胸が悪くなる。しかし、顔には出さなかった。
ただ黙々とぼろ布で吐瀉物を集め、囲み、拭う。
そのぼろ布が汚れれば、水に浸け、洗った。それから、ぎゅっと堅く絞る。
その手こそに、秀吉とねねが慈しみ心を傾けて育んだ豊臣というものが、
今も正しく、やさしく、息づいている。
慶長五年、夏のこと