黄金の海だ。秋風に波がさざめく。稲穂らは豊かに実った。高くなった天に一斉に頭を垂れている。

 豊穣を司る豊宇気毘売神が今まさに近江を渡っているのだ。

 彼女が踏み渡る、その足下には惜しみなく恵みが与えられる。

 秋も半ばを過ぎ、稲は刈り入れ時であった。

 豊宇気毘売神の下、農に携わる者どもは、老いも若きも、男も女も、田に出、精を出してきた。

 せっせと働き、額に汗している。どれも懸命だ。だが、喜びに満ち溢れている。近江は今年もまた豊作なのだ。

 稲穂の海に佇む左近は笠を取った。

 豊宇気毘売神に、また石田三成の民に、慎んで礼を尽くす。そうさせる人と季節の営みの尊さが、この海にはあった。

「島様」

 傍で頭を垂れたのは、農の者である。見知った翁だ。左近は顔を上げさせた。

 夏によく働いたのだろう。日に焼けた首に手拭いを巻いている。

 土のついた指先までが、今日の農に携わる者に相応しく、生き生きと生気に満ちていた。

 翁は黄金の海を眺めた。細い目がさらに細まる。

「石田様にもご覧頂きとうございましたな」

 そう、その通りだと左近は思う。

 石田三成は誰に謗られようとも、いくさ場で槍働きをする士である。人を斬り、人を斬れと言う人の上に立つ男だ。

 だというのに、彼は商いであるとか、農であるとか、人の営みによく心を砕いた。

 そういうことを生来好いているのだろう。

 あれは春先、田植えのころ、三成は馬上ながら、その様子に熱心に見入っていた。

 俺もやろう、などと言い出しはしないかと隣の左近は考えたくらいだった。

 よくよく晴れた天を仰ぐ。

 三成は今、この天に続く京にある。秀吉の傍近く、仕えている。

 近江へ戻ることは年中少ない。だが秋は特にそうだった。

 石田三成は、この実りを帳面で知るだろう。膨大な書き付けられた数が、淡々と彼に豊作か不作かだけを教える。

 城からでは、この黄金の海は見えまい。人もまた見えまい。そういうことを左近は思った。



 左近が京へ上って来た、という知らせを聞いたとき、三成は「寄越した文より一日早い」と首を傾げた。

 左近を近江より呼び寄せたのは三成である。

 だが、島左近は億劫を厭うところのある男だ。三成とは違い、何かを早めるということがない。

 ならば、すわ火急の用件かとも過ぎったが、しかし左近はいっこうにここ聚楽へ姿を見せない。

 どうも急ぎの用でもないらしい。また首を傾げる。

 そういうわけで、三成は昼間過ぎに石田屋敷へ下がった。

 厩にいた左近の使う口取りに尋ねれば、左近は台所にいると言う。三成は眉を潜めた。

 その足で向かえば、開け放たれた裏の木戸からは、おんなたちに混じって左近の声も聞こえてくる。

 本当に台所にいるらしい。

 島左近は並みいる武将らと軍略についてあれこれ話していたかと思えば、同じ口で酒や女を軽妙に語る。

 その上、今はどうやらおんなたちと煮炊きについて話している。

 誰にでも、何にでも、器用に合わせ、話ができる男だと三成は半ば呆れて感心する。

「左近」

 木戸を潜り、こちらに背を向けている左近に呼びかけた。

 三成に気がついたおんなたちは深々と頭を下げる。だが、左近は面のみ振り返った。

「おや、殿」

 手が離せないらしい。

 三成は手振りでおんなたちに炊事に戻るよう伝えると、左近の手元を覗いた。米櫃の米を杓文字で切っている。

 炊き立てだ。櫃からはゆらゆらと白い湯気が立ち上っている。

 ふっくらと膨れ、濡れた米と甘いにおいは、三成の空いた腹をするりと包んだ。

 そのままやわらかく、やさしく、きゅっと締め付けられる。

 そういえば昼を抜いていた、と思い出したところで、左近に声をかけられた。

「今日はお早いようで」

「お前が来ていると聞いた」

 三成が言うと、左近は目をすいと細めた。

「これはこれは、嬉しいことを言うて下さる」

「お前が来ているというのに、一向に俺の下へ来ないからだ」

 そう責めるが、その責めを、左近は分かったもので、本気と取らない。

 口先のみで「すみませんね」などと謝って見せる。

「米を炊いていたもので」

「お前がか」

「ほかの者には夕餉の支度がありますからな」

 左近は杓文字を置き、次はたくあんを切った。鮮やかな黄色に、腹の空く香りがこぼれる。

 それらを手早く小皿へ取り分けた左近は、ごく当たり前に三成に小皿を持たせた。そうして自身は米櫃を抱える。

「おい、左近」

「さ、参りましょう。もうすぐここはおんなのいくさ場になる。男はとっとと退散するに限ります」

 左近は米櫃を抱えたまま、草履を捨て、板間に上がった。三成も仕方なくそれに倣い、左近に付いて廊下を渡る。

 室へ入るわけでもない左近は、三成が起居する室の濡れ縁に櫃を置いた。三成もたくあんを傍に置き、胡座をかく。

「なんだというのだ」

 三成は改めて左近の出で立ちを眺めた。襷を掛け、髪まで束ねている。すっかり下働きの装束だ。

 鬼の名が泣く、と密かには思わず、三成は口に出した。

「腹が空いているのか、左近」

 濡れた手拭いで手を拭く左近に訊ねる。

 左近は「ま、それも捨て難くはありますが」と言いながら、手のひらに米を取った。そのまま、形良く、結び始める。

「今日は殿に召し上がって頂こうかとね」

「俺が食うのか」

「そのために近江から持って参りました」

 三成はふと左近の手の中で結ばれていく握り飯から、天へと目を向けた。

 もう空が高い。日は秋らしく西へ傾き、日差しは薄くなっている。時折吹き込む風はさらさらと乾いていた。

 「そうか」と三成は呟いた。今になって、ようやっと感じる。

「もう秋か」

「ええ、今年もこうしてたんと近江は実りましたよ」

 握り飯を差し出される。

 結ばれたばかりのそれは、見るだけで、手も触れていないというのに、温かさが染み入ってくるようだった。

 三成は急に空腹を思い出した。そのままに、手を伸ばす。だが、はたと気が付いた。

「待て、左近。米が納められるにしては早くはないか」

 三成の目が瞬く間に険しくなる。

 三成は納められる米の量を細かに定めていた。また豊作の年は、そうだからといって取り過ぎるということはない。

 国に納めて残った米は、田畑で働いた民たちの取り分としていた。

 加えて三成は治める者が代わっても、国の取り分が今の通りであるように、定め書きまで書いたのだ。

「それを、俺の一の家臣であるお前が易々と破るのか」

 その非難に、今度は左近も軽々しく謝ったりなどはしなかった。だが、鷹揚な様までは崩さない。

「殿、確かにこの米は民たちから直に貰い受けました。だが、俺は寄越せとも、欲しいとも、言っちゃあいません」

「言わずとも、上に立つ者にそのような素振りを見せられては」

 と更に言い募ろうとした三成は左近に制された。

「だから、殿、俺は何も言ってはいませんよ。殿に召し上がって頂きたい、と申したのは農の者らです」

 これには三成も面食らった。先ほどまでの鋭さが一気に失せてしまう。

 左近は握り飯を櫃の端に置くと、ふたつめを結び始めた。

 そうして他愛のない話をするように、三成に語って聞かせる。

「少しずつ、分けてくれたんですよ。

 国に納める分を量ってより分け、残った家族で食う取り分の中から、殿にってね」

 そういえば、と櫃を見る。米は櫃いっぱいにあるというわけではない。

 それこそ、握り飯をふたつ、みっつこしらえられるほどだ。

 「食べませんか、殿」と左近は言った。

 三成はまだ渋る。

 しかし、左近は急かさなかった。ふたつめの握り飯が左近の手の内で結ばれる。

「殿、誰も定めを破っちゃいませんよ。殿が決められた定めの中で、民も殿も腹八分目に飯を食うことができる」

 食べなさい、と左近は言った。

「うまいですよ」

 責めるわけでも、急かすわけでも、無理強いをするわけでもなかったが、それは三成の逡巡を吹き払った。

 握り飯を手に取る。そのまま大口でかぶりついた。

 途端に口が、腹が、心が、満ちる。たいへんにうまい。三成はもう一口も大口で頬張った。

 それから、「困ったな、左近」とぽつりと言う。

 三成はふたつめを手に取り、みっつめを結ぶ左近を難渋した面で見遣った。

「俺は今、礼状を書こうと思ったのだが、いったいどの者に宛てて書けば良いのか分からん」

 すると、左近はまた三成の思い悩みを笑って吹き払った。

「ただうまかった、と言っておやりなさい」

「だが、ここからでは遠くて聞こえんだろう」

「ならば、これからも民に心を砕いて、土を耕し、国を富ませ、国を守ることです」

 稲穂は春の田植えに始まり、梅雨の長雨を経て、真夏の下でぐんと伸び、秋口の大嵐に耐えて実る。

 農の者らは耕し、植え、育て、職人は業を生み、商人は国を富ませ、侍は国を守る。

 そうして上に立つ者はその差配を一手に引き受ける。

 それらすべてがぐるりと巡り、美しく結ばれている。

 頷く代わりに、結ばれた幸を頬張った。

「うまい」

 握り飯の、その米粒ひとつひとつに、三成は理想の世を見るのである。










黄金の海


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