喧噪は一帯にあった。
兵どものざわつき、武具の鳴り音、陣立ての様、それらが折り重なって辺りを包み、沸き上がっている。
隠密を要するわけではない。
寧ろ、大軍の様を敵方に見せることを総大将である羽柴秀吉は好んでいる。そう左近は見ていた。
戦わずして人の兵を屈するのは善の善なる者なり、という。
秀吉か、もしくはその幕下に孫子によく通じた者がいたのだろう。
だが、一方で左近の耳はその喧噪の中の諍いを拾っていた。
兵どもが陣立てに勤しむ、その最端、着到奉行の陣でのことである。
秀吉の下に参じた武将らは、この陣を必ず通らねばならない。
命じられた通りの兵を連れているか、着到奉行が検分をするためだ。
つい先日、左近も秀吉の客将として、この陣を通った。
そうして、このいくさで着到奉行を総括するのは、石田三成という秀吉子飼いの武将である。
何度か顔を合わせたが、小姓上がりらしい目鼻立ちのよく整った、まだ若い男であった。
諍いの一方は、その石田三成に違いなかった。声を荒げる某かを、小気味よいくらいに淡々と撥ね付けている。
左近は陣の外で待たされているのだろう某かの兵どもや、次やその次に並ぶ武将らの合間を縫って、陣内に踏み入った。
石田の兵らはさすがに振り返ったが、こちらが島左近であると気がつくと道を開けた。
何らかの期待をもって左近を見る者さえもある。
幕内では、やはり石田三成と某かが真っ向から相対していた。
威勢の良いことに、三成はふた回りほども年嵩の、いかにも武人らしい将を相手にひとつも怖れたところがない。
怯むことも、媚びることもない眼差しと声音は、秀吉の覚えめでたい者であるという自信というよりも、生来の性根であろう。
左近は石田の兵をひとり掴まえて、事の起こりを尋ねた。
曰く、やはり兵の数で揉めているらしい。その上、耳の端で石田と某かの遣り取りを聞けば、決着する様子はとんとない。
石田の兵と某かの兵が溜まるこの陣内では、割って入られる者もいないのだろう。
左近は胸中天を仰ぐと、そうとは思わせない気軽な足取りで、言い争う二人へと踏み出した。
石田三成は苛立っていた。
今まさに向かい合う将の頭の出来に呆れ、物わかりの悪さに腹が立ち、唾を飛ばす大声にうんざりとしていた。
着到奉行の陣内でのことである。
はじめ下の奉行らと揉めていたところに三成が割って入った。
聞くと、将が兵数を言わないのだと言う。
それどころか、羽柴殿の軍勢はこれだけの大勢であるのだから多少の兵のあるなしはどうということはない、とまで言うのだ。
そうして、無理に押し通ろうとする。三成はそうはさせじと、将の前に立ち塞がった格好だ。
もう何度目になるか、三成は改めて言った。
「貴殿が兵の数を正しく仰るまで、ここはお通しできかねる」
すると、将もまたもう何度も繰り返したことを口にする。
「通達にあった、だいたいの兵はおる」
「その答えではお通しできないと、申し上げているのです。そちらが正しい兵の数を仰らないならば、こちらで数えます」
「莫迦な。どれほどかかるか」
「ならば、正しい兵の数を申されよ」
将は、この期に及んで言い淀んだ。
通達より少ないであろうことは揉めごとのはじめから承知している。
三成が知りたいのは、将の率いる兵の正しい数である。
だというのに、この将は兵数が少ないことそのものを有耶無耶にしようとしているのだ。
乱世だ。規定の兵数を集められなかったのは、懐具合であるとか、そういったわけもあるだろう。
だが、だからと言って数を偽るのを黙認できるかと言えば、それは筋が違う。承伏できかねる。
将兵らが命がけでいくさ働きをするように、奉行の三成もこの場こそをいくさ働きの場としているのだ。
引くわけにはいかなかった。
三成は将を見据えたまま、石田の兵らに命じた。
「数えろ」
すると、将が一際大きく喚く。
「若造が、勝手なことを」
将の手がぐっと伸びる。
胸ぐらに掴みかかろうとでもいうのか。三成は咄嗟に帯に指した扇を抜いた。そのままに鋭く振り下ろす。
ぱしんと高い音が響いた。堅い扇が武人らしい厚い手のひらを打ち据える。
が、三成は瞠目した。将もまた同じような様だった。
三成を掴むことなく、かといって打ち据えられたわけでもない将の手は、所在なげに空を切る。
三成が打ち据えたのは、全く別の男の手のひらだった。
いや、三成が打ち据えたというより、男に扇を受け取られた、そのほうが正しい。
「貴様」
三成は、割って入ってきた男を見遣った。
男を三成は知っている。島左近という秀吉の客将だ。
先ほど、何用なのか、この陣内に入って来たことも、またこちらに割って入ろうとしていたことも、
三成は目の端で捉えていた。
だが、まさか振り下ろされる扇の下に手を出すとは思いもしなかった。
思わず男の名を呼ぼうとして、しかし、三成は思い留まった。その左近が三成を見据えていたのだ。
凪いだ目が、お静かに、と語りかけている。
左近は三成と将を見比べ、それから「お話の最中」と言い掛けて、わざとらしく三成の方に扇を返した。
その際に、にっと笑う。
「まだ、お話の最中、ということでよろしいですよね」
これには二人とも決まりが悪かった。三成は扇を帯に指し、将は手を引っ込める。
それに満足したらしい左近はひとつ嘆息した。どちら側に立つというわけでもない。
「ご検分が長引いているようですが、後ろがつっかえていますよ。待たされて、もうずいぶんと経つ」
その左近の言い分に、三成は眉根を寄せた。この男の検分なら、もうとうに済ませてある。
そう怪訝に思ったが、またしても左近がこちらをあの眼差しで見るものだから、三成は押し黙るよりほかなかった。
その間に左近は将へと視線を転じる。
「先ほどから話を聞いていれば、そちらさん、早く兵の数を言っちゃあくれませんかね」
促されて、将は「いや、それは」と口ごもった。大柄で、いかにもいくさ慣れした様子の左近に気圧されたのだろう。
その様に左近は声音を和らげた。
「なにも賞罰のためだけに、というわけじゃありませんよ。
こちらの着到奉行殿は、兵站も取り仕切っておられてね。
あなたが連れて来られた兵の数が通達より多いのなら、その分の米を用立てる必要がある。
が、もし兵の数が少ないというのに、大軍の敵さんに当たれとでも言われたら、あなたの家臣に無用な死者が出る」
それにね、と左近は続け様に次は三成に目を向けた。
「兵を多く引き連れて来たのなら、秀吉殿のことだ、たいそう喜ばれるに違いない。
しかしながら、今はいくさの世だ。兵を集めるのは、なかなかに難しい」
「それくらい、知っている。だから、なんだというのだ」
三成は、きっと左近を見据えた。たいがいの者は、そこでこちらに食ってかかってくる。
だが、この男はそうはならなかった。悠然とした様を崩しもしない。
そのうえ、目を覗き込まれる。
「もちろん、兵数を誤魔化せとは言いません。
しかしね、奉行殿。この方のご事情を兵の数に添えるくらいはできるでしょう」
「それは、できる。だが、」
と口にしかけたことを、左近は分かった風であった。
左近の目がふと離れる。だが、次は三成がこの男の目を追いかけていた。
「ま、その事情を汲み取るも汲み取らぬも、秀吉殿次第ですけどね」
話しませんか、と左近は武将に言った。三成もいつの間にか二人に囲まれる格好であった武将に目を移す。
男は少しの間を置いて、やがて項垂れた。
ぞろぞろと陣の前を兵らが通り過ぎていく。
やはり、兵は少なかった。
将の領国ではいくさが続き、男が減っていた。田畑は荒れ、焼け出された民もいる。
加えて、男は父と兄をいくさの最中に亡くしたばかりであった。
いくさどころではない。
そう反対する一族郎党を押し切り、彼は忠義を見せるときは今ぞと残った兵をかき集め、馳せ参じたのだった。
家を丸ごと秀吉に賭けたのだ。
よくある話だ。左近は思う。本当にも、作り話にも、よくある話なのだ。
そう考えを巡らしかけたところで、左近は振り向いた。
「島、左近」
着到奉行の石田三成だった。彼は憮然とした面持ちで、左近の真ん前に立った。
彼にとって、先ほどの一戦は引き分けというところだろう。勝気な面構えのこの男には、面白いはずがない。
左近はなるべく事を荒立てぬよう、人当たりの良いといわれる笑みを浮かべた。
「おや、俺の名を覚えていて下さったとは嬉しいですね」
すると、三成は鼻を鳴らした。
「なんならお前が着陣した日と刻限、連れている兵の数を言ってやろうか」
そう言う三成に、左近は心中首を傾げた。
面持ちはぴりぴりした様であるが、どうやら機嫌が悪いということでもないらしい。
発する声音は淡々としているが、それは常の、謂わば地のようだ。
左近がそのように考えている間、いかにもせっかちそうな若者はじっとこちらを見据えていた。
その眼差しがなにか返答を期待していることに気がつく。一瞬訝しむが、「ああ」と合点がいった。
「嘘は言ってませんよ」
この男は、先ほど左近が口にした「待たされて、もうずいぶんと経つ」がどういうことかを説明せよ、と言っていたのだ。
頭の回転が早いというよりかは、一足飛びという方が正しい。
先ほどの揉め事もそうで、これでは周りと意志疎通ができているのかも怪しいところだ。
「俺が待たされて、とは言っていないでしょう」
言うと、また三成は鼻を鳴らした。それから、呟く。
「奴もお前のように嘘をついていなければよいのだがな」
それだけで、左近は即座に理解した。この奉行は、あの将の話の真偽を調べるつもりなのだ。
誰になんと謗られようとも、この男ならばやるだろう。
そうせざるを得ない立場に彼は立っている。そうしてもし左近が彼の立場であっても同じことを考えた。
「余計な手間になっちまいましたね」
謝罪を口にすると、三成はむっつりと口を閉ざした。返答にあぐねているようであった。
手間だと撥ね付けることも、かといって助けられたと謝辞をすることも、その両方があるので出来ないでいるのだろう。
気難しく、そうして若者らしく意固地で一本気なのだ。
その様に、意地が悪いと自覚のある左近も珍しくつい助け船を出してやりたくなった。
「余計ついでに、もひとつよろしいか」
「なんだ」
「さきほどのことですよ」
秀吉に後は委ねよと言った際に、三成は確かに渋った。秀吉を思うばかりに、その手を煩わせることを渋ったのだろう。
「だが、あれは頂けませんな」
「どういうことだ」
「主には主の、臣には臣の、立つべき領分があるということです。
あの家を如何に処するかを決するのは、あなたではない。秀吉殿だ。出過ぎた真似はよくない。
あなたのお役目は、その秀吉殿が羽柴にとって最良の決断ができるよう秀吉殿の目となり耳となることじゃないですかね。
ご自分の分を過分に過ぎるご才をお持ちのようだが、
分を過ぎたところにある人心を捉えられるほどのご器量はまだ足りないように思いますよ」
左近は、腹を立てるか、と覚悟した。
たとえそうでなくとも、顔をしかめるか、辛辣な言葉を投げつけてくるか、それくらいはするだろう、と思った。
だが、意外なことに左近の予想に外れ、三成はまじまじと左近を見据えている。
心なしか、表情も先ほどまでより柔らかい。
これはどうしたことかと左近が訝しんでいると、三成は「驚いた」と素直に口にした。
「俺にそのようなことを申すのは、秀吉さまやあの馬鹿たちだけかと思っていた」
それに、左近は苦笑した。
「ま、みなさん腹の内で思っていても、あなたには言わないと思いますけどね」
「どうして言わぬのだ」
「どうしてって、そりゃあなたが今まさに天下を取ろうとしている秀吉殿の懐刀だからですよ」
いずれこの切れ者と噂される若者が天下人秀吉の下で、天下の采配と権勢を振るう日が来る。
それ故、誰もが彼の顔色を窺っている。機嫌を損なうことを恐れているのだ。
「では、どうしてお前は申した」
「俺はみなさんと違って気楽な牢人の身ですから」
はは、と笑い混じりに言うと、三成は「それは、おかしい」とぴしゃりと撥ね付けた。
「お前によると、みなは後々の我が身のために口を閉ざしているらしいではないか。
であれば、牢人の身だろうが、いや牢人の身であれば余計に、我が身を思うものではないのか」
三成は、重ねて「どうしてか」と左近に詰め寄った。
そう問われたところで、実のところ左近にも答えがない。
相手が彼でなければ、適当にあしらうところだが、
どうもこの男はそういうことには鋭く、そのうえそれこそ本当に腹を立ててしまうだろう気配がある。
弱ったな。左近がそう心中呟いたところ、陣内がまた騒がしくなった。
三成はすぐさま顔つきを変えた。みるみる鋭く尖っていく。
さきほどまで左近に見せていた表情は、この男なりの親しみの表れであったのかもしれない。
「またか」
奉行らと兵らが揉めている。また兵数のことだろう。三成は踵を返すと、すたすたとそちらへ歩き出した。
だが、途中振り返る。
「左近。暫し、待っていろ。お前とはもう少し話がしたい」
石田三成とは、羽柴秀吉の懐刀である。
左近は着到奉行として采配を振るう彼の背を眺め、改めてそう思った。
先ごろ陣中で病没した竹中半兵衛と黒田官兵衛が軍師としての知恵袋ならば、石田三成は国を営むための才知だろう。
そう、彼は抜き身の刀なのだ。刃は鋭く、よく切れる。秀吉の敵とあらば容赦なくすぱりと切って捨ててしまう。
そういう三成の鞘であり、おさまりどころが羽柴秀吉、その人なのだ。
しかし、彼は刀であるから、白刃の下にいの一番に晒される。斬られるのならば、まずは彼だ。
ないのだ、と左近は思う。
彼にはないのだ。秀吉にとっての石田三成がない。降りかかる難を払い除ける刀がない。盾もない。
彼だけを守るものが何もない。
あの背にはないのだ。
「待たせた」
三成がつかつかと歩み寄ってきたのは、夕暮れのころであった。今日参陣する兵らは、全てこの陣を通り終えたらしい。
左近は彼がやはり左近の真ん前で立ち止まるのを待って、ゆるり口を開いた。
「ええ、待ちましたよ」
そう返されるとは、まさか思ってもいなかったのだろう。三成は眉根を寄せる。
それから、気を取り直し、左近の目を探るように覗いた。
「名高い島左近がただ待っていたとは思えんな」
それには、「ほお」と相槌に留まる。言外に続きを促せば、三成は汲み取ったようだった。
「お前、本当は兵を見に来ていたのだろう」と言う。
眉が跳ねた。そう、その通りだ。
「ばれちまっていましたか」
けれど、左近は悪びれることはなかった。口角をくっと上げる。
この陣は、兵のざっとした数はもちろんのこと、率いる将らの人となりや兵らの士気まで、垣間見ることが出来る。
策を巡らす上で、それは肝要なことだ。
三成ら着到奉行をあなどるわけではない。
けれども、左近はその目でいくさ場を、将兵らを見るべきだと思っている。いや、そういう気性なのだ。
「能く人を択びて勢に任ず、という。俺とて、孫子くらい読むのだよ」
三成の言に左近はにっと笑った。
「ご明察、とでも申しておきましょうか」
「ひっかかる物言いだな」
左近は三成のその真っ直ぐな目を受け流した。ぐるりと陣を見渡す。
石田の兵らがよく働いていた。
その陣幕の向こうには、参陣した兵らの煮炊きの白い煙があちらこちらから夕焼けの空に立ち昇っている。
「仰る通り、将兵らを見るのにちょうどよかった」
だがそれは半分だと教えてやる。
「では、あとの半分は」
問われて、三成に目を向けた。
先ほどと同じように、いかにもせっかちそうなこの男は、きっと左近を見据えている。
責めや怒りではない。この目は、この眼差しは、石田三成の研ぎ澄まされた鋭さなのだ。
そう、今、すとんと腹に落ちた。
目を細める。改めて、この才気溢れる若者を眺めた。
夕映えをする姿だ。面差しも、立ち姿も、美しいと思った。心の有り様が彼を真っ直ぐにしているのだ。
千年も生きた山奥の神木であるとか、森の深くに鎮座する神の宿る大岩であるとか、大和の国を抱く山々であるとか、
なにかそういう変わらない、深遠なるものが、彼の内側に確かに在る。
左近は微笑を含んだ眼差しで三成を見つめる。
「言ったでしょう。三成さん。あなたを待ちましたよ、と」
三成は、わずかに瞠目したようだった。息を呑んだかのように肩が、胸が、膨れる。
けれども、次の呼吸とともにそれらは静かに呑み下された。あとには、淡々とした彼の常なる面差しだけが残る。
「そうか」
三成はぽつりと言い置いた。
それから、彼にしては珍しくうっすらと口許に笑みを浮かべた。
「左近」と呼ぶ。
左近は「はい」と応えた。
「話の続きだ」
「ええ」
「酒でも出そう」
「嬉しいですね」
歩き始める。
肩を並べてではない。左近の半歩前を石田三成が歩くのだ。
曲がることを、折れることを知らないその背に、行く先をひたと見据えるその眼差しに、胸に思いがさざめく。
それは左近が久しく忘れていた思いだ。
「ところで、左近」
「なんでしょう」
三成はちらりとこちらを振り返った。少々渋い顔をする。
「随分と親密なのではないか」
とは、彼を「三成さん」と呼んだことだろう。
左近は声を立てて笑った。笑いながら、ご安心召されよ、と言う。
「きっと今暫くの間のみのことですよ」
この思いの名が呼ばれるまで。