「蝉か」
ふと後ろの人物が左近の拾い上げたものを指して言った。
そう、その通り、蝉だ。積み上げかけの、まだ腹の高さほどの石垣の上で夏を終えた蝉だ。
盛夏を疾うに過ぎ、あのじりじりと肌を焼くような日差しは随分とましになった。ただ今は蒸すように暑い。
石垣の積み石はそういったひと夏のすべてを吸い、熱く焼かれていた。
もうすぐここら辺りの石垣や城攻めの為の砦、それら一切も出来上がる。
左近はふと左右に目を巡らせた。
この頃の豊臣は日に日に膨れ上がっている。とかく人が多い。
あちらでもこちらでも汗水を垂らした男らが石垣や城を積んでいる。
まるで蝉の死骸にわらわらと集る夏蟻のようだ。
そう何処かで一線を引いて思う一方で、左近自身もまた客将として豊臣に身を寄せていた。
筒井を出て以降、身の処し方を決め倦ね、そのうえ元来胸に抱えた厭世気分まで拗らせて、
今もまだこうして我だけは強い童のようにぐずぐずと年月を徒に過ごしている。
幸い、それが出来るほどには頭があった。腕もあった。それでこうして端から見れば悠々と腹と顔を繋いでいる。
空の青はだんだんとその色を薄めている。掛かる雲はちぎれ始めている。もう今年の夏も仕舞いになるのだろう。
左近は蝉の羽をひょいと摘まんだまま、踵を返した。
それで、ようやく後ろの人物と顔を合わせる。目の端のとんがった男だ。
いや、本当のところは顔立ちきれいな涼しい目をした男であるが、
やはりとんがっている、と何度顔を会わせても思うのは、彼の顔に愛想も愛嬌もないからだろう。
仏頂面、とはまさに彼の面のことだ。
石田三成。
左近らなどとは違い、まだ織田が織田としてあった頃より、小姓として秀吉に仕えてきた男だ。
若いが、長い。長いが、若い。そのどちらもがある。
「やめておけ」
石田は暑いのだろう、平生は腰に差した扇で顔に日陰を作りながら、
左近の手の中を如何にもつまらないといった様で見詰め、言った。
だが、左近は聞かなかった。
彼は確かに秀吉の覚えめでたい男だが、左近の主ではない。
たとえそうであったとしてもやはり諾とは頷かなかったろう。あれやこれやと手足を縛られるのはどうも好かない。
左近は石田を追い越し、林立する木々の木陰まで少し歩いた。樹冠の内へ入ると肌に掻いた汗の辺りが逆さに冷える。
そうして土のほどよく湿ったところに手にした亡骸を置いてやった。
「死んだ全てにそうできるわけではないだろう」
石田の足が短く踏み固められた下草を鳴らす。左近の後ろを付いて来たのだろう。
まったく奉行らしいものの考え方だと左近は思った。
山崎、賤ヶ岳、小牧長久手、そのほか大小様々ないくさ場をこの若い男は奉行として見事に仕切ってのけた。
いずれは秀吉の下、この国をまるごと取り仕切る日も来るかもしれぬ。
左近は振り返り、彼を見詰めた。次は追い越さず立ち止まる。
やはり目の端のとがった男だ。鼻っ柱の強さがよくその目に、面に、しゃきりと伸びた背に、表れている。
左近はまずはその通りだと頷いてやった。しかしそのあとで首を振る。
「目の前のものくらいはすくってやりたい。そう思うときもあるものです」
言うと、石田は少々考えを巡らせたようだった。
それから思い当たったように、
「そやつはおれか」
と口にした。
左近の拾い上げた蝉はおれか。
石田の問いに左近は僅かに目を開く。
そうして瞬きをする間に彼と駆けたいくさ場がごうと音を立てて真正面から後ろへと過ぎて行った。
石田は石田なりに引く手あまたの島左近が他を袖にして、やたら自分をかまうそのわけを探していたのかもしれない。
存外、こういうところは小僧のようでかわいらしい。
目を細めた。だが、彼の顔はよく見えた。遮らねばならない日差しのない此処では石田の扇はすでに腰に収まっていた。
ああ、よいな。と思う。
あの扇はよい。収まるべきところを石田の懐に持っている。
この男にとって、そう在りたいものだ。
そんな長くわざと靄に隠したままにしていた思いが、不意に形を結んだ。
読みを外したことはない。今が天のときだ。
いいえ、と左近は答えた。
石田の額に葉々の重なりより日差しが零れる。左近はそれをてのひらで払ってやった。
あの熱された石垣の上で死んだ蝉は石田ではない。断じてない。
石田は瑞々しい才気の詰まった若木なのだ。
じっとして微かにも動かない彼の眼差しに左近は胸のうちをそっと口にした。
「このまま干からび、土にも帰れず、他の何かの糧にもなれずに死に逝くのは御免だ。
そう思っているのは他でもない、このおれなんですよ、三成さん」
再び立つ地の到来を今か今かと待ち侘びる。
野分き